01.26.15:26
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03.14.16:04
放射能から体を守る食品
でも少しでも体を守る知恵があります。
他の方の転載ですが以下のような情報を見つけました。
「●食で放射能をなるべく放出する方法。
過去の広島や長崎の前列から。
砂糖類摂らない。水分控える。 塩を努めて摂る。 海藻、味噌、玄米。
玄米にすり黒胡麻塩。 放射能は体を冷やす極陰性、自然治癒力が働く温める陽性の食を、そして放射能を排出する働きの食をできるだけ努めて摂る。
●放射線を防ぐ食品をお探しの貴方へ
~福島の方は今すぐ召し上がってください~
「ヨウ素をたくさん含む食品ベスト10」
乾燥昆布一切れ1枚1グラム
トロロ昆布大さじ販売1グラム
乾燥ワカメ5グラム
いわし中2匹96グラム
さば1切れ100グラム
かつお1切れ100グラム
焼き海苔10枚3グラム
ぶり1切れ80グラム
塩鮭1切れ60グラム
寒天1角の半分4グラム
●放射線を中和する食品をお探しの貴方へ
放射能は極陰性、焼き梅干玄米、昆布、で中和されるようだ。
広島原爆の時も知識ある人は焼き梅干で中和したと文献で読んだ。
砂糖、小麦粉、牛乳を飲まないようにする事で放射能被害の症状悪化は防げる。
しょっぱいもの、塩気のものを取ってください。
「爆弾をうけた人には塩がいい。玄米飯にうんと塩をつけてにぎるんだ。塩からい味噌汁をつくって毎日食べさせろ。そして、甘いものを避けろ。砂糖は絶対にいかんぞ」
(秋月辰一郎著「死の同心円-長崎被爆医師の記録」講談社刊・絶版)
1945年長崎に原爆が投下され多数の方が放射能を浴びて亡くなられました。
その中で放射能による被害を免れた、爆心地から1km程度のところにあった聖フランシス病院内科部長であった秋月博士の体験されたことが、下記URLで紹介されていますので、是非ご参照ください。
秋月博士や救助にあたった人すべてが強烈な放射能を浴びながらも原爆症になることはなく、助かったそうです。
秋月博士は最近までご健在でした。
それは、玄米、味噌汁、昆布などの海草類からなる伝統的日本食を摂ることによって、体内の毒物を排出することができたからです。
一般に塩辛いものは身体に悪いとされますが、強烈な放射能に晒された非常事態下、
秋月博士は味噌汁は塩分を濃くし、できるだけ辛くするように指導しました。
そして甘い砂糖の使用は一切厳禁とした食事の結果、救助に当ったすべての人が放射能の被害から免れることができたとのことです。」
http://otsukako.livedoor.biz/archives/30327358.html
貴重な情報だと思います。
出会えたことに感謝します。
03.14.14:48
てんつくマンさんによる原発情報
原発情報!まさかチェルノブイリ以上とは
「情報が入りました。
政府の発表はパニックを避けるために真実は伝える事は出来ないようです。
読んで下さい。
1福島原発冷却機能NG
2放射線量取材結果
1
原子炉研究所の小出先生のメール転載。
普段、慎重に意見を言われる先生がここまで書くというのは、よほどです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
皆様、福島原発は破局的事故に向かって進んでいます。
冷却機能を何とか回復して欲しいと願ってきましたが、できないままここまで来てしまいました。
現状を見ると打てる手はもうないように見えます。 後は炉心溶融が進行するはずと思います。
それにしたがって放射能が環境に出てくると思います。
その場合、放射能は風に乗って流れます。西向きの風であれば、放射能は太平洋に流れますので、日本としては幸いでしょう。
でも、風が北から吹けば東京が、南から拭けば仙台方面が汚染されます。
今後、気象条件の情報を注意深く収集し、風下に入らないようにすることがなによりも大切です。
周辺のお住まいの方々は、避難できる覚悟を決め、情報を集めてください。2011/3/12 小出 裕章
既に現地では最大190人が被曝しているという報道が出ています。
とりいそぎまで。
2
森住卓を初めJVJA福島原発取材班はプレスリリースを発表しました。
http://mphoto.sblo.jp/article/43820834.html
============================
三月一三日午前10;20双葉町役場玄関付近で放射線を計測。
三台の機器を使用。
すべての測定器が振り切れた。(BEIGER COUNTR DZX2は1000マイクロシーベルト/時以上,VICTOREEN 209-SI10ミリレントゲン/時以上,MYRate PRD-10/19,9マイクロシーベルト/時)なりふり切れた。
10時30分頃 双葉町厚生病院玄関前でもすべての計測器が振りきれた。国道288号線を双葉町に向けって多くの人々が自宅に向かっていった。すべて
の住民が双葉町の高汚染について知らなかった。我々は双葉町に向かう住民の車を止めて、長時間の滞在は危険であることを知らせた。
半径二〇キロ圏内立ち入り禁止の表示はなかった。また、検問もなかった。
問い合わせ先:JVJA携帯:090-6101-6113
不通の場合、佐藤文則の携帯:090-4066-0479
取材者;JVJA山本 宗輔、森住 卓、野田 雅也、豊田 直己、綿井健陽、DAYS JAPAN編集長広河
〓一
参考:広河〓一(談)
二月末のチェルノブイリ原発取材で、事故炉から二〇〇メートル付近で計測した値は4ミリレントゲン。事故炉から四キロ離れた、プリピャチ市で計測した値は0,4ミリレントゲンでした。
(なお、広河〓一、森住 卓はチェルノブイリ原発、世界の核実験場など核汚染取材のスペシャリストである) 」
以上てんつくマンさんのブログより転載
http://ameblo.jp/tentsuku-man/
テレビなどより真実を伝える 原子力資料情報室 記者会見
http://www.ustream.tv/recorded/13269582
03.13.21:19
原子力発電は今すぐ止めてほしい
チェルノブイリのように何年も自分の故郷に帰れない人たちのことを思うと、胸が痛みます。
でも今回の事故は、現在進行形の脅威です。
これ以上大変なことになりませんように。
原子力発電が安全でクリーンなエネルギーと推進している、利権を求める一部の人たちや電力会社のいうことを、信じてはいけない。これが現実。
今の日本の技術をもってすればエネルギー問題はどうにでもなるはず。
田中優さんのお話を聴いて、皆で考えたいです。
03.13.21:01
私たちに何ができるか
大変な中ですが、みんなで出来ることを考え、力を出し合い、祈りたいと思います。
人と人がつながり、少しでも愛と希望が広がることを願います。
友人5人から以下のようなメールを頂きました。
「関西電力で働いている友達からのお願いなのですが、
18時以降関東の電気の備蓄が底をつくらしく、
中部電力や関西電力からも送電を行うらしいです。
一人が少しの節電をするだけで、関東の方の携帯が
充電を出来て情報を得たり、病院にいる方が
医療機器を使えるようになり救われます!
こんなことくらいしか関西に住む僕たちには、
祈る以外の行動として出来ないです!
このメールをできるだけ多くの方に送信をお願い致します!」
家もこまめに明かりを消したり、エレベーターに乗らないようにしたり、できるだけ節電をこころがけます。今日も早めに寝るようにしようと思います。
以上のメールが後からチェーンメールでしたと友人からまた連絡がきたのですが、
節電は続けようと思います。
10.22.02:45
淡路屋太郎兵衛さん
太郎兵衛さんは大八車を牽いて、町民に気違い扱いされながら四天王寺の再建を訴え、五重塔を再建した人だと父に聞かされていました。
今日は「王道」「孟子」「聖徳太子」というワードが気になり調べている中でふと「淡路屋太郎兵衛」さんを検索してみるとネットに太郎兵衛さんの記事が出ていて感激してしまいました。以下がその文です。
四天王寺の伽藍は、幾度もの火災や戦災に遭っています。
享和元年(1801)12月5日の雷火によって焼失した時の被害は四天王寺にとっては大打撃で、幕府からの援助もあまり期待できませんでした。
再建するには険しい状況でしたが、 庶民の寺として四天王寺再建を望んだ大坂町人は捨て置かず、 錦袋町年寄の淡路屋太郎兵衛が勧進元となって町人の財を集め、文化10年 (1813) に再建落成をみました。
私にも生まれながらに持ているビジョンがあります。
気違い扱いされても、志を持ち続けた太郎兵衛さんに尊敬とともに親近感を覚えます。
そんな大きなことは出来なくても、私らしくみんなが少しでも未来に希望を見出せるような事ができたらと願います。
10.15.13:44
私たちが「明るい未来を描く」為のお話
今ある社会の延長ではなく、そこから抜け出し、望ましい社会の あり方をみんなで描きたいと心から思います。
具体的にどうすればいいのか?
同じ思い持つ多くの人と一緒に考えたいです!
10.15.12:48
みつあみ
パーマをあてたみたいにふわふわにしたいのかな?と思い
「いいよ。」と髪を4つのブロックに分けてキュッとみつあみをしてあげました。
パーマをあてたい気持ちもあるけど、あてるとなると高いし髪も傷むだろうしと
思っていたところだったので、ふっと思い立って
「わたしもみつあみしてくれる?」と聞くとすぐに「うん、いいよ!」とみお。
「できるの?」「できる!」
みおは私がしたのと同じように4つに分けて
胸まで届く私の長い髪を、根元はちょっとゆるかったけど
ちゃんとみつあみをしてくれました。
今朝、みつあみをほどくと、どちらも
ゆるゆるに髪が波打っていました。
でもすぐにとれてしまいそう…
二人で「今度はスプレーで髪を湿らしてからやってみよう!」
ということになりました。
娘にみつあみをしてもらう日が来るなんて…
と感慨深く、
なにげないこんなやりとりに幸せをしみじみ感じます…
10.14.17:18
町かどの藝能
昨年、ブログ内で紹介させていただいた、「町かどの芸能」が今年も般若林で開催されます。
玉すだれ、あやつり人形、けん玉など280年前の名人芸をはじめ、江戸商人とのやりとりなども楽しめます。
子どもたちと一緒に行こうと思います。
とても楽しく、豊かな体験ができる「町かどの芸能」に是非一度足を運んで下さいね!
日時 平成22年10月22日(金)~24日(日) 11時~16時
場所 京都市上京区相国寺門前町702
般若林内 長田学舎 (相国寺北門前)
交通 地下鉄「鞍馬口」
料金 大人2000円、こども(小学生以上)1000円
問い合わせTEL/FAX075-211-0138(おさだ塾)
10.10.00:13
赦免地踊り
10月10日、今日は八瀬のお祭り「赦免地踊り」の日です。
灯籠踊(とうろうおどり)ともいわれ,透彫りの見事な切子灯籠(きりことうろう)を頭にのせた女装の青年(灯籠着(とろぎ)という)や美しく化粧した少女の踊り子たちが行列を組んで天満宮社まで音頭を囃しながら練り歩き、夜通し唄を歌いながら踊り続けた(現在は、10時まで)という風情あふれる祭りです。
花笠をかぶった少女たちの踊りも行われ、これも中世の風流踊りの伝統を受け継ぐもので、京都市登録無形民俗文化財に指定されています。
延元元年(1336年)、後醍醐天皇が比叡山への行幸の際、警護を務めた八瀬童子(やせどうじ)が誉められ、永久に八瀬の土地租税を赦免され、それへの感謝の念で始まりました。宝永4年(1707年)八瀬村と比叡山との争いの際、老中、秋元但馬守(あきのもとたじまのかみ)の裁断で救われ、この恩に感謝して、秋元神社を建立し踊りを奉納したのが由来と伝えられています。
でも雨が降ったら無くなってしまうと聞きました。
天気予報では雨と出ています。
よく知っている子達が、踊り子として出られるし、
余興で、日舞を一緒にお稽古している男の子たちが
「一寸法師」を凛々しく踊る予定です。
この日の為に子どもたちはお稽古をがんばってきました。
晴れて、お祭りができるようにと祈るばかりです…
夜中にブログの記事を書いて眠りました。 朝になり、すぐに天気予報を見ると、なんと
晴れに変わっていました!
きっと祈りが通じたのですね!!
そして赦免地踊りのお祭りが無事、行われました。
お囃子が響き、神社への参道を美しい灯篭がゆらゆらと行列し進んでいく様は、幻想的で夢の中にいるようです。
赦免地踊りをみていると、過去現在未来が永劫繋がっているような感覚になります。踊り子さんがみんな知っている子たちで嬉しくなります。
素直さのびやかさがつたわり、とってもかわいかったです。
余興では日本舞踊をお稽古している男の子たちによる「一寸法師」、
とても元気に上手に踊れていました。
「日本の伝統を子どもたちに」と八瀬の子どもたちにずっと日本舞踊のお稽古をつけて下さっていた、若柳金弥先生の思いが重なって、感無量になり、涙があふれました。
天国から、子どもたちの様子を観にきて下さっていたのだと思います。
娘の澪と手をつなぎ、幸せな気持ちで歩いた参道の美しいパノラマを
ずっと覚えていたいです。
ありがとうございました!
07.08.16:31
想いを込めて…
篠塚澄子さんから電話がかかって来ました。
澄子さんは「自分らしく生きる」お手本のような素敵な人。
10年以上前、自分が作った信念、それがもとで起こる執着心にがんじがらめになっていた私は縁あって澄子さんに出会って、自分を取り戻しました。
その後もいろいろ関わりがあって、澄子さんのことを魂のお母さんと思っています。
その電話で「あなた詩を書いてみない?」
そう言って下さったので私の中にあるあふれだすような想いを表現してみました。
捕らわれから解放されて自由になった私の中から、少しづつ愛があふれ出しました。
その頃から現在までどのように何を想って生きて来たか…そんなことを表現したものです。
ちいさなバラ
光るうつわ
この世の中の 悪しきもの 醜いものと 言われている ものの中にも 佳きものと 美しいものが かくれている 佳きものと 美しいものの中にでも 悪しきもの 醜いものが あることも いろいろなものが ごちゃまぜに 合わさり まるで泥の中 私は想像してみます 自分の中に 光るうつわがある事を
人の善意や周りの笑顔、青い地球の美しさ… 感じる心のフィルター通し 佳きもの 美しいものだけの 雫を うつわに落とし続けます
そして今、 あふれるぐらいに いっぱいに…
日常の ささやかな事 貴方の笑顔 居てくれてありがとうと伝え合う 感謝の気持ちに胸がふるえ 器の雫があふれだし 川となって流れてく
毎日何かに感動し 毎日喜びに満たされる これを幸せというのかな?
だとすれば、幸せは 誰でもつかめるフィーリング 自分の中を望ましい 素敵なもので満たすだけ…http://www.cleazation.com/top.html
太陽の子ども人の色見て 羨ましくないものねだり 苦しんでそんな想いが 集まってすべてが混ざると どろの様…この世は灰色? 本当に?濁ってしまう その前の生まれた時から 持っているみんな もとの色がある自分の色を 思い出しそれぞれ 輝かせたとき空には 虹が顕れるそしていつか太陽の お母さんの元に還ってく誰か一人じゃ できないよみんなが必要みんなの色を全て合わせ
白くきらめく光になる
物語り年、性別、立場、国…自分と違う 人たちと話すと とてもおもしろい自分を 開け放し人を 深く感じてみるそしたら 人の数だけの物語りがあることに気づく人と話すとおもしろい自分とちがう人生を豊かに感じて自分の中に…一緒に泣いて 一緒に笑って胸が震える物語り全宇宙の物語りみんな みんな聞いてみたい自分らしくこども達、大人も周りの 言う事聞いて良い子で生きてて辛くない?感じる気持ちに 蓋をしてみんなと 同じに生きていくどうして 他の誰かと違う考え持ってはいけないの?あなたの周りに、自分の気持ちに正直に生きている人が きっといる何と言われても 頓着せずにさわやかな 風を吹かせて瞳を輝かせ 生きている自分の気持ちに 正直に心のままに 生きているあなたの心の 奥の声耳を澄まして 聴いてみてそのままのあなたを 受け止めて誰が褒めてくれなくても自分を好きに なることがこころが一番 落ち着くよ私の一番の友達はわたしまずは自分の一番の 理解者になろう心穏やかに満たされ 生きる人はみんな そうしているみたい自分らしさを 認める人はあなたらしさも 歓迎できるそんなふうに なれたらいいねみんな みんな なれたらいいね
澄子さんのオフィシャルサイトです。
素敵なサイトなのでよかったら一度覗いてみて下さいね。
07.01.07:32
パンのお客さん
家の近くでオフィスをしている友達がパンのデリバリーをオーダーしてくれたことがきっかけで、火曜日と金曜日は自宅の玄関先でパン屋さんをしています。
マンションの仲のいいお友達も何人か買いに来てくれます。
来てくれるときはいつも、お互い気になっていることなどをいろいろおしゃべりして楽しみます。
ご近所のインド音楽家カルロスさんとっこさんもライ麦パンを気に入ってくれて、時々お散歩がてら買いに来てくれるようになりました。
一日商店街で出店したときに出会った、草木染をされている北代さんがパンを気に入ってくれて、時々来てくれるようになり、そして北代さんのお友達も来てくれて仲良くなったりと、少しづつ輪が広がっています。
そうした出会いとコミュニケーションがパンを通して起こり、日々が豊かに彩られます。
国産小麦粉、オーガニック全粒粉、オーガニックライ麦、国産粗製糖、よつ葉バター、よつ葉スキムミルク、無えんせきソーセージやハム、手作りマヨネーズ、無農薬コーンなど、なるべく安心な材料を使い作るおやつパンはどれもひとつ100円。
売り上げは材料費と、とんとんぐらいだけど、勉強中の身なので、それでもありがたいです。
気持ちを込めて、もっともっと美味しくみんなに喜んでもらえるように、がんばりま~す。
06.30.17:50
カフェ/cafe
修学院のお寺の掲示板で目にした「奪い合うと足らないのに、分け与えると余る」という言葉が心に残りました。
子どもたちが学校に行くようになってできた、私の自由な時間をみんなの為になるような使い方をしてみたいなって思い始めました。
周りのお友達と集まって皆のお話を聞いて、何か自分たちにできることを見つけて、そして行動してくきっかけになるようなカフェをしたいなって…
その話を何人かの友人にしたら「そういう時間を求めていた」と喜んでくれました。
毎週木曜日に持ち回りでそれぞれのお家に集まって、カフェを開いています。
明日は3回目のカフェ。
何かを始めるよりもまず、心の奥の声に耳を傾けてみる…
自分自身を見つめてみる…
その先に観えて来る自分たちの中の答え…
それを掴むと回りの現実も歯車のように動き出す…
そんな感覚を味わえるような話が先週思いがけず舞い込んで来て、
なにやら面白い事が起きそうでワクワクしてます。
近いうちに報告できるかな?
05.12.21:26
今日1日の出会い、驚き、発見
インド音楽をされているとっこさんのお家で、
チャパティとプーリーとカレーをご馳走になりました。
とっこさんは音楽の勉強でインドにおられたことがあって、
お話しながら手際良く使い込んだ麺棒で生地を延ばし、
私の目の前で焼いてチャパティ、
揚げてプーリーと、あっという間に出来上がり!
熱々を出して下さいました。
カレーもインド料理のお店や本に出て来るような物ではなく、
家族を思いインドのお母さん達が作るような、
愛のあるやさしい美味しさでした。
よく道端で見かけるイタドリ…かじるとすっぱく土のような匂いのある草…それがとっこさんにかかれば美味しいご馳走に…
酸味がお醤油と絶妙に合う、きんぴらに仕上げて出してくれました。
とっこさんは、「天ぷらにしたら美味しいよ」とお庭に自生している、
みつば、ゆきのした、ヨモギなどの山菜と若い柿の葉を摘んでお土産にくれました。
どくだみや山椒の苗などもあって、どれも自然に生えているのだそう。
神様と繋がる音楽をされているから、神様に愛されて必要なものが周りに集まって来るのだろうなって感じました。
そして白いお花とローズマリーの枝を摘んでくれました。
畑に咲いていたラベンダーと一緒に玄関に飾ってみました。
いいにおい…
夜におかずに山菜天ぷらとイタドリのきんぴらを添えました。
ひろひとは「ゆきのした美味しい!」と喜びました。
今まで知らなかった、八瀬の皐月のご馳走です…
鶯の声、つつじ、藤の花、日々深くなる山の緑、
巣立ったばかりのカラスの子ども、高野川の脇道のすぐそばにいた鷺、川に浮かぶ鴨、家の畑のいきいきしたサニーレタス、トウモロコシの芽…
とっこさんとカルロスさんの家まで行く10分ぐらいの散歩道で私が出会ったもの…
八瀬に居て過ごす日常そのものが、豊かに虹色に彩られています。
この何気ない豊かさを価値あるものと感じる、
縁のある皆と日常を楽しむこと…
これが私の一番したいことです。
この春に此処に3組目の友人家族が引越してきました。
何年も前に思い描いた私の夢がひとつひとつ叶っています。
更にその先の大きな夢も今の日常の積み重ねの先にあると
信じています。
とっこさんカルロスさんと仲良くなり、いろいろな事を教わり
一緒にさせてもらえることもたくさんあるのが今とても嬉しい。
今日はどんな1日に出会えるのかな?
子どもの頃、朝に目が覚めてわくわくしていたあの気持が蘇ってきます。
今日も本当に楽しかった!
明日はどんな1日に出会えるのか…
楽しみに眠ります。
05.10.00:21
母の日
5月9日は母の日。
今年の母の日は感慨深い日になりました…
パンの仕込みが終わって一息ついていた後、
今日の夕ご飯を作っている最中に「お母さんへ」と子どもたちがくれた
ものを見て、胸が熱くなって涙が出て来ました…
今までもらったどんなものより感動しました。
こんな気持ちはじめてです…
ひろひとは小学校へ行き始めてひらがなが書けるようになって
A4の紙を二つに折って手造りしたお手紙をくれました。
ちゃんと表にわたしの名前が書いてあります。
ひろひとがこの間、頂戴と言って持っていった、きらきらのリボンが
このお手紙を飾っていました。
開けてみると、保育園で撮ってもらったひろひとの写真が貼ってあって
お花が1輪と笑っている人のいる家が書いてあります。
おかあさんの絵なのでしょう…
ひろひとの想いを感じて胸があつくなりました。
みおのくれた、かわいいよつばのクローバーの袋にはピンクの文字で
「いつもありがとう これからもよろしくおねがいします!!」
と書いてあってかわいいハートのシールや、みおの大好きなキャラクターのシールを惜しげもなく貼って、飾ってくれています。
開けてみると、ハートのお抹茶クッキーが6つも入っていました。
これは母の日に贈りたいとのみおからのリクエストで、前日から生地を
仕込んでいたものを、みおが今朝焼いたものです。
このあいだ野菜の苗を買いにいった時には、お花を買いたいとねだる ので何かと思ったら、母の日にお母さんにあげたいと思ってくれていたそうなのです。
お花はいいよと断ったら、そしたら飾ったクッキーをあげたいということになったのです。
そんな、みおの気持ちを思ったらまた感動の涙が…
こどもたちの純粋な気持ちは本当に素適です。
何ものにも勝ります。
このごろ、伸ちゃんが出張で居なくて、日常のことを回していくだけで
いっぱいで、段取りどうりに進まないと子どもたちのことを叱り、怒ることが多くなっていた自分の姿をみさされます。
子どもたちがこころの奥で望んでいることを感じます。
彼らをもっと信じていいことを…
声にもっと耳を傾けることを…
彼らに温かいまなざしを送ることを…
私の役目は”彼らが自分一人の力で歩いていける人に成長するその日”まで子どもたちが心から安心して自分を解放し真に成長できる環境をつくること…
明日からまたこころを引き締めて、子どもたちと向き合います。
04.28.17:40
とっとちゃんのお話し
「本当にあったとっとちゃん」のお話をしてくれました。
担任の先生が好きな本、「窓際のとっとちゃん」を読んでくれたんだそうです。
とっとちゃんが1年生なのに学校を卒業したこと
新しい学校の校長先生が話したい事を話してごらんと
とっとちゃんのお話を聞いてくれてとっとちゃんはとても嬉しくて
4時間以上もお話をし続けたこと…
いきいきと話す、みお。何かに感動したのだと思います。
日常の忙しさ、子どもたちに早寝してもらう為に宿題や支度をするように
追いたてるように叱る毎日。
みおが何か話そうそしていても、「後でね。」「宿題が終わってからね。」「やることはもうやった?」と、この頃ちゃんとみおのお話を聞いていなかったな。
用事をしていても出来る時は手を止めて、向き合ってこども達のお話に耳を傾けよう。みおからとっとちゃんのお話は私を聞いた時、そんな気持ちになりました。
04.28.16:16
「9歳の危機」突入ですか?
シュタイナー教育で言われている「9歳の危機」とはお母さんと一体だった幼児期に別れをつげて、母親は自分とは別の人と自覚し、孤独や寂しさに襲われながら別の世界に入っていくという大切な時期なのだそうです。
「幼児期の子どもは、母親を背中に感じていました。
9歳前後の子どもたちは、母親を隣に感じるようになるのです。」
「背中に感じていた」というのは、どういうことでしょうか。
母親に包み込まれている、母親と一体化している・・・そんな感じです。
「隣に感じるようになる」というのは、もう、母親の体に子どもは包まれていないのです。
子どもは、母親のひざから立ち上がり、母親の隣に座ったのです。
母親のひざから降りた9歳の子どもたちは、自分の周りにいる人たちが、
自分とは別の人であることを実感するようになります。
そのとき<死>の恐怖を味わい、孤独感や寂しさにおそわれます。
9歳は、幼児期に別れをつげ、別の世界に入っていく子どもにとっては一番大事な時期なのです。
みおの昨日の夜のエピソード、また後でアップします。
04.23.01:09
子どもとゲームについて話す
私は絶対に買わないと決めて子どもたちにもそう伝えている。
みおの同級生の友達が一人、二人とDSを買ってもらい始め、持っていないのは考えの良く似た私のお友達のところと家だけになってしまった。
家にはお父さんが作ったドームがあり、展望台があり、橋があり、ハンモックがあり、段ボールハウスがある…「お家の遊園地」と呼ぶ子ども達のスペースはみんな大好きで、みおが1年生のころから家によく友達が集まって、お家ごっこや動物ごっこ、みんな考えたおんぶおばけごっこなどをして遊んでいるのを、こども達っていろんな発想が面白いなと家の用事をしながらほほえましく見ていた。
春休みも誘いあって何人も家にみおの友達が遊びに来た。
その中の2人がDSを持ってきた。
「ごめん。家ではゲームはなしなの。せっかくみんなが集まったのだから家でしかできない遊びをしてもらいたいの。」と伝えるとがっかりしたようにゲームをしまう。
家でやっていた続きが早速したかったのだと思う。
気持ちはとてもわかるのだけど、”それが家のルールよ”みたいな態度できっぱり言った。
中には「ゲームは面白くないからもうやめた。」と宣言する子もいたりして
へー!と驚いた。その子は冬でも半そでで元気に走り回って遊んでいる。アクティブなのが性に合っているのだと思う。素適!
おやつに抹茶ういろうを作っていると何をしてるの?と子どもたちは興味しんしん…「やってみる?」「うん!」競い合って手伝ってくれる子どもたち。
何か新しいことにチャレンジする子どもたちの目は輝いている。
私はそんな子ども達の姿が好き。
こうやってものを生み出す豊かな時間を共有するのがとても好き。
新学期が始まって、ゲームが大好きなお友達の家によく遊びに行くみお。
私はお友達の家でゲームをさせてもらうことまでは禁じていない。
けれど私がゲームをすることを良く思っていないことを知っているみおは
少し後ろめたそうな感じで、前みたいに何をして遊んだか多くを話してくれなくなった。
ゲームはね、なんでお母さんがキライなのか言おうか?
子ども達に話しかける。
「うん聴きたい。」
二人のこどもたちが耳を傾けてくれる。
それはね…
子どもたちの中には想像の世界が広がっているいるでしょ。
もえぎちゃんもいつもいろんなお話をいっぱいつくっているでしょ。
想像の世界はどこまでも広がっていけるよね。
深い海の底だって、高い山の上だって、宇宙にだって広がって行けちゃうでしょ。
お母さんは子どもには大人にないすごい力があるって思ってるの。
ゲームやテレビは子どもたちの自由な世界をどんどん食べて減らしてしまうの。
ゲームは大人も子どもも面白く感じるように作られているけど、大人が考えた小さな世界なの。その中に閉じ込められて、いつもピコピコピーって頭の中でおとが鳴る感じになって、その世界から離れられなくなるの。
子どもたちにはそれぞれ自分らしいすごい力があるの。
でもゲームをいっぱいすると、頭の中のどこかがみんな一緒になってきてしまうの。
子どもにしかないすごい力が減ってしまってもいい?
「いや!」
子どもたちは真剣な面持ちで聞いてくれて即座にそう答えてくれる。
「ほんとかどうかは別にしてこれはお母さんが思っていること。」と付け加える。
もしゲームがしたかったら、大人になって仕事をしてお給料もらったら買って、いくらでもゲームをしたらいいよ。
ゲームをしていたら会社で嫌なことがあっても忘れることができるものね。
でもゲームをしないでどうやったら嫌な思いをしなくてすむか考えることもできる。
ゲームや何かで嫌なことを忘れるとまた同じことを繰り返して嫌な思いをする。
また忘れるためにゲームや何かをする…
ちゃんと考えて嫌な事が無くなる様にしていくのがいいか、ゲームや何かをして、嫌なこと忘れて、また同じことを繰り返すのがいいか、どっちがいいかな?
「考えるほう」
と二人は答える。
今、娯楽とされるものの大抵のしくみはそうだと思う。
自分らしい感覚を麻痺させ、楽なような楽しいような錯覚を味わう為のもの。
お金をどんどん落す仕組み。
自分で物を生み出すこと、人と心が触れ合う事、自分らしい好きなことをすること、自然の美しさにうっとりすること…
日々のささやかな感動の連続の日常がゲームよりもっと味わい豊かだよ。
自分らしい人生を歩むことは、ゲームの中のどんな冒険より面白いよ!
勇気をもって自分の感覚に忠実に生きると、ワンダフル!ビックリするような奇跡がいっぱい起こるのだよ!
これがゲームにハマる子どもたちへ、私が日々感じている事とささやかなメッセージです!
04.22.10:47
みおの家出
昨日の学校の後、友達の家に遊びに行ったみおが5時半時にそのお友達の家から電話してきた。
「お母さん、あと10分遊んでいい?」
前の日に5時半には帰るようにしようねって約束していたから、
電話してきたのはいいのだけどここで崩したら意味が無い
「だめだよ。昨日約束したやろ?」
「わかった。」
すぐにみおは帰ってきた。
ところが1年生になったひろひとの友達が家に遊びに来ていて、
幾ら言ってもおもちゃをなかなか片づけなくてまだ遊んでいた。
鉛筆のキャップを笛にして、帰って来たみおに向って二人で
「ぴ~!」「ぴ~~~~い!」
みおはあまりの騒がしさに
「ひろひとなんて大っきらい!」
「もうこんな家はいや!!」
って靴下のまま家を出てしまった。
ひろひとのお友達とひとひとは出て行ったみおを
探しに行こうか?と聞いてくる
「家に帰って落ち着きたいのに騒がしい二人が嫌だったみたいやから、
二人が行ったらまた逃げるよ。それより片づけよう。」
自分はまだ遊びたいのに我慢して帰ってきたのに、
二人がまだ遊んでいたのがしゃくにさわったのもあったのだと思う。
やっと何とかおもちゃが片付いて友達は帰って、
ひろひとと夕飯を準備しているところに
みおがインターフォンを鳴らして「開けて」
「早く帰っておいで」
玄関先でひろひとと出迎えると
ひろひとを見ただけで
「ひろがいる家はいやや!」
とまた靴を履いて出て行ってしまう。
しばらく待っても帰って来ない。
ひろひとに
「どうしたらいいと思う?」
「…」
「迎えにいったらいい。」
「その間ひろはどうする?」
「るすばんする。」
「じゃあ行って来るね。」
前にも玄関先の道の家の影になるとこころに隠れていたから、
そこを目指して行ってみる。
でも居ない…
みおが歩いて20分以上かかる学校の近くの友達の家のところまで行くとに言っていたのを思い出す。
もう暗くなるのに、もしかしてそんなところまでひとりでとぼとぼ歩いて行ったの??
駆け足で行けども行けどもみおの姿は見えない。
途中ひろひとの同級生の女の子とお姉ちゃんが家の前で遊んでいた。
「みおをみた?」
「この前を歩いて行った。」
と教えてくれる。
家に続く道と学校へ向う分かれ道まで来る。
どちらに行こうか迷う。
家に向う道に行っているなら、そう心配もいらない。
でも遠い友達の家のところまでこんな時間に一人でとぼとぼ行っているなら
寂しい場所もあるし大変…
私は走って行ってみる。
どこまで行ってもみおは居ない。
とうとう友達の家までついてしまう。
もし家に上がり込んで家に電話してもらっていたら
いけないなって思い、玄関チャイムを鳴らしてみる
お友達とその妹とおばあちゃんが出て来てくれる。
みおは来ていなかった。
3人も心配して行き違いになっていたらいけないからと別の道を一緒に探してくれる。
ところが合流地点でいくら待っても3人の姿は見えないので
待ち切れず家の方に戻ることにする。
薄暗い道を走って走って…まだ500mぐらい先の通学路への分かれ道のところで
みおらしい子どもの人影を見る。
でもその人影はその道に降りていってしまう。
私も急いで走ってその道に降りて行く。
普段は見晴らしが利く道なのに暗くて人影が見えない。
向こうから来る小さなダンプカーのライトに照らされて、直ぐによける事無く
ふらふら歩いている小さな子どもの姿を見つける。
ぼんやり子どもが一人で暗い夜道を歩いているその横をゆっくり進む
ダンプカーこんな子どもがさらわれてしまうようなシチュエーションにぞっとする。
みおを探している間、こどもが居なくなり一生その子を探し続ける「チェンジ」という映画がずっと頭をよぎっていたのだ
「みお!!!」
「おかあさんごめんなさい…」
「心配で心配でしかたなかったよ!!こんなことは二度としないで!」
半泣きで叱る
「二度としません」と約束したみお
繋いだ手は冷たかった…
みおは私が追い掛けてくるのを待っていたのだ。
でもそんなことで愛情確認するのはやめてほしい。
「ずっと待っているひろくんにあやまったげてな。」
みおは素直にうなずいた。
家に帰ると鍵が掛かってチェーンまでしてあった。
ひろひとが長い間一人ぼっちで家で待っていたのだ。
涙目のひろひとにみおが小さく「ごめん」と謝った。
「長い時間一人にしてごめんね。」
ひろひとは寂しさとおねえちゃんに嫌われたショックで打ちひしがれている…
でもひろひとにも原因がある…
厳しいのだけれど、わかって欲しいなと思ってあえて言葉にする。
「ひろひとがしたことが自分に帰ってきたのだよ。
ひろひとがちゃんとできていたら、嫌われたり寂しい思い
をすることはなかったのだよ。」
実は前日の眠る前、寝転んで手足をバタバタしていたひろひとの足がみおの手の指にぶつかって、骨が折れるように痛かったらしく、それでも「ごめんなさい」を言えないひろひとに「大っきらい!!」と大喧嘩していたのだ。
「ぶつかったりしたときも、直ぐに謝らない。いい事をしてあげてもありがとうって言わない。怒ったら物を投げつける…みんなひろのこと嫌いって言ってる!大嫌い!」そう言ってみおは泣きながら眠った。
そうした普段のひろひとの行動ががまんならなくて、みおの中でひろひとに対する嫌な思いがたまってしまっていたのだ。
ひろひとも繊細なところがあって、強く人におこられると固まってしまうのだ。
身動きがとれなくなってしまう感じ…そして自分を守るための虚勢…
良くないパターンにはまっている…どうすれば彼はそこから抜け出せるのか??
「みおはひろひとが嫌いとかいやなのではなくて、ひろひとのしていることが嫌なだけなの。
みおの友達の○○ちゃんが、もしありがとうもごめんなさいも言えない子やったら、
みおはその子のこと嫌いになるで。
その子が嫌いなのではなくて、その子のしていることが嫌いなの。
ひろひとがちゃんとできたら、ひろひとのこと嫌いでなくなるよ。
ありがとうとごめんなさいは人と仲良くなれる魔法の言葉やで。
それが言えるようになったらいいんやで。」
これを言ったからって、ひろひとがすぐに納得したり、出来るようになるとは
思っていない。けれど伝えたいから何度でも言う…
何か他にいい方法があったら何でもやってみようと思う
感情や言いたい事を出し切る家の子たち…
でも自分の強い感情と付き合えるようになるまで
もっとたくさんの時間が必要なのだと思う
私自身の中にもくせがあって理論で自分の感情を言い負かしていることに気が付く時がある。
人は自分自身にしていることしか人にしてあげられない…
つい子ども達に理屈攻めをしてしまっている自分がいる。
まず私が自分自身の気持ちに寄り添い感じてみる。
こうした時間が私にも必要なのだ。
そうしてはじめて子ども達にもっと寄り添い
二人の気持ちを感じて抱き締めることができるようになる。
そんな母親の在るべき姿に私もなりたいです。
日々学びです…!
04.18.18:05
原発の真実 1
友人がこども芸大で「六ヶ所村ラブソディ」を上映してくれて、原発に関心を持ち、ネットでいろいろ調べていたときに出会いました。
はじめてこの文章を読んだ時、原発の本当のことを知り私は愕然としました。
今この瞬間からでも、原発を止めて欲しいと本気で思います。
今の技術を持ってすればもっと安全でクリーンな方法で現在必要な全電力を作れるはずです。
何とかしないとと思い、行政や六ヶ所村の再処理工場のある青森の知事などに原発反対のメールをしました。
以下のHPはグリンピースのされている活動のひとつで、青森県知事宛てにメッセージを送ることが出来ます。
https://www.greenpeace.or.jp/ssl/enerevo/switch1
こども達の未来を明るいものにするために自分自身に出来る事、
これからも探して即実行していきたいです。
以下は平井さんの文章です。
私は原発反対運動家ではありません。
二十年間、原子力発電所の現場で働いていた者です。原発については賛成だとか、危険だとか、安全だとかいろんな論争がありますが、私は「原発とはこういうものですよ」と、ほとんどの人が知らない原発の中のお話をします。そして、最後まで読んでいただくと、原発がみなさんが思っていらっしゃるようなものではなく、毎日、被曝者を生み、大変な差別をつくっているものでもあることがよく分かると思います。
はじめて聞かれる話も多いと思います。どうか、最後まで読んで、それから、原発をどうしたらいいか、みなさんで考えられたらいいと思います。原発について、設計の話をする人はたくさんいますが、私のように施工、造る話をする人がいないのです。しかし、現場を知らないと、原発の本当のことは分かりません。
私はプラント、大きな化学製造工場などの配管が専門です。二○代の終わりごろに、日本に原発を造るというのでスカウトされて、原発に行きました。一作業負だったら、何十年いても分かりませんが、現場監督として長く働きましたから、原発の中のことはほとんど知っています。
「安全」は机上の話
去年(一九九五年)の一月一七日に阪神大震災が起きて、国民の中から「地震で原発が壊れたりしないか」という不安の声が高くなりました。原発は地震で本当に大丈夫か、と。しかし、決して大丈夫ではありません。国や電力会社は、耐震設計を考え、固い岩盤の上に建設されているので安全だと強調していますが、これは机上の話です。
この地震の次の日、私は神戸に行ってみて、余りにも原発との共通点の多さに、改めて考えさせられました。まさか、新幹線の線路が落下したり、高速道路が横倒しになるとは、それまで国民のだれ1人考えてもみなかったと思います。
世間一般に、原発や新幹線、高速道路などは官庁検査によって、きびしい検査が行われていると思われています。しかし、新幹線の橋脚部のコンクリートの中には型枠の木片が入っていたし、高速道路の支柱の鉄骨の溶接は溶け込み不良でした。一見、溶接がされているように見えていても、溶接そのものがなされていなくて、溶接部が全部はずれてしまっていました。
なぜ、このような事が起きてしまったのでしょうか。その根本は、余りにも机上の設計ばかりに重点を置いていて、現場の施工、管理を怠ったためです。それが直接の原因ではなくても、このような事故が起きてしまうのです。
素人が造る原発
原発でも、原子炉の中に針金が入っていたり、配管の中に道具や工具を入れたまま配管をつないでしまったり、いわゆる人が間違える事故、ヒューマンエラーがあまりにも多すぎます。それは現場にブロの職人が少なく、いくら設計が立派でも、設計通りには造られていないからです。机上の設計の議論は、最高の技量を持った職人が施工することが絶対条件です。しかし、原発を造る人がどんな技量を持った人であるのか、現場がどうなっているのかという議論は1度もされたことがありません。
原発にしろ、建設現場にしろ、作業者から検査官まで総素人によって造られているのが現実ですから、原発や新幹線、高速道路がいつ大事故を起こしても、不思議ではないのです。
日本の原発の設計も優秀で、二重、三重に多重防護されていて、どこかで故障が起きるとちゃんと止まるようになっています。しかし、これは設計の段階までです。施工、造る段階でおかしくなってしまっているのです。
仮に、自分の家を建てる時に、立派な一級建築士に設計をしてもらっても、大工や左官屋の腕が悪かったら、雨漏りはする、建具は合わなくなったりしますが、残念ながら、これが日本の原発なのです。
ひとむかし前までは、現場作業には、棒心(ぼうしん)と呼ばれる職人、現場の若い監督以上の経験を積んだ職人が班長として必ずいました。職人は自分の仕事にプライドを持っていて、事故や手抜きは恥だと考えていましたし、事故の恐ろしさもよく知っていました。それが十年くらい前から、現場に職人がいなくなりました。全くの素人を経験不問という形で募集しています。素人の人は事故の怖さを知らない、なにが不正工事やら手抜きかも、全く知らないで作業しています。それが今の原発の実情です。
例えば、東京電力の福島原発では、針金を原子炉の中に落としたまま運転していて、1歩間違えば、世界中を巻き込むような大事故になっていたところでした。本人は針金を落としたことは知っていたのに、それがどれだけの大事故につながるかの認識は全然なかったのです。そういう意味では老朽化した原発も危ないのですが、新しい原発も素人が造るという意味で危ないのは同じです。
現場に職人が少なくなってから、素人でも造れるように、工事がマニュアル化されるようになりました。マニュアル化というのは図面を見て作るのではなく、工場である程度組み立てた物を持ってきて、現場で1番と1番、2番と2番というように、ただ積木を積み重ねるようにして合わせていくんです。そうすると、今、自分が何をしているのか、どれほど重要なことをしているのか、全く分からないままに造っていくことになるのです。こういうことも、事故や故障がひんぱんに起こるようになった原因のひとつです。
また、原発には放射能の被曝の問題があって後継者を育てることが出来ない職場なのです。原発の作業現場は暗くて暑いし、防護マスクも付けていて、互いに話をすることも出来ないような所ですから、身振り手振りなんです。これではちゃんとした技術を教えることができません。それに、いわゆる腕のいい人ほど、年問の許容線量を先に使ってしまって、中に入れなくなります。だから、よけいに素人でもいいということになってしまうんです。
また、例えば、溶接の職人ですと、目がやられます。30歳すぎたらもうだめで、細かい仕事が出来なくなります。そうすると、細かい仕事が多い石油プラントなどでは使いものになりませんから、だったら、まあ、日当が安くても、原発の方にでも行こうかなあということになります。
皆さんは何か勘違いしていて、原発というのはとても技術的に高度なものだと思い込んでいるかも知れないけれど、そんな高級なものではないのです。
ですから、素人が造る原発ということで、原発はこれから先、本当にどうしようもなくなってきます。
名ばかりの検査・検査官
原発を造る職人がいなくなっても、検査をきっちりやればいいという人がいます。しかし、その検査体制が問題なのです。出来上がったものを見るのが日本の検査ですから、それではダメなのです。検査は施工の過程を見ることが重要なのです。
検査官が溶接なら溶接を、「そうではない。よく見ていなさい。このようにするんだ」と自分でやって見せる技量がないと本当の検査にはなりません。そういう技量の無い検査官にまともな検査が出来るわけがないのです。メーカーや施主の説明を聞き、書類さえ整っていれば合格とする、これが今の官庁検査の実態です。
原発の事故があまりにもひんぱんに起き出したころに、運転管理専門官を各原発に置くことが閣議で決まりました。原発の新設や定検(定期検査)のあとの運転の許可を出す役人です。私もその役人が素人だとは知っていましたが、ここまでひどいとは知らなかったです。
というのは、水戸で講演をしていた時、会場から「実は恥ずかしいんですが、まるっきり素人です」と、科技庁(科学技術庁)の者だとはっきり名乗って発言した人がいました。その人は「自分たちの職場の職員は、被曝するから絶対に現場に出さなかった。折から行政改革で農水省の役人が余っているというので、昨日まで養蚕の指導をしていた人やハマチ養殖の指導をしていた人を、次の日には専門検査官として赴任させた。そういう何にも知らない人が原発の専門検査官として運転許可を出した。美浜原発にいた専門官は三か月前までは、お米の検査をしていた人だった」と、その人たちの実名を挙げて話してくれました。このようにまったくの素人が出す原発の運転許可を信用できますか。
東京電力の福島原発で、緊急炉心冷却装置(ECCS)が作動した大事故が起きたとき、読売新聞が「現地専門官カヤの外」と報道していましたが、その人は、自分の担当している原発で大事故が起きたことを、次の日の新聞で知ったのです。なぜ、専門官が何も知らなかったのか。それは、電力会社の人は専門官がまったくの素人であることを知っていますから、火事場のような騒ぎの中で、子どもに教えるように、いちいち説明する時間がなかったので、その人を現場にも入れないで放って置いたのです。だから何も知らなかったのです。
そんないい加減な人の下に原子力検査協会の人がいます。この人がどんな人かというと、この協会は通産省を定年退職した人の天下り先ですから、全然畑違いの人です。この人が原発の工事のあらゆる検査の権限を持っていて、この人の0Kが出ないと仕事が進まないのですが、検査のことはなにも知りません。ですから、検査と言ってもただ見に行くだけです。けれども大変な権限を持っています。この協会の下に電力会社があり、その下に原子炉メーカーの日立・東芝・三菱の三社があります。私は日立にいましたが、このメーカーの下に工事会社があるんです。つまり、メーカーから上も素人、その下の工事会社もほとんど素人ということになります。だから、原発の事故のことも電力会社ではなく、メー力-でないと、詳しいことは分からないのです。
私は現役のころも、辞めてからも、ずっと言っていますが、天下りや特殊法人ではなく、本当の第三者的な機関、通産省は原発を推進しているところですから、そういう所と全く関係のない機関を作って、その機関が検査をする。そして、検査官は配管のことなど経験を積んだ人、現場のたたき上げの職人が検査と指導を行えば、溶接の不具合や手抜き工事も見抜けるからと、一生懸命に言ってきましたが、いまだに何も変わっていません。このように、日本の原発行政は、余りにも無責任でお粗末なものなんです。
いいかげんな原発の耐震設計
阪神大震災後に、慌ただしく日本中の原発の耐震設計を見直して、その結果を九月に発表しましたが、「どの原発も、どんな地震が起きても大丈夫」というあきれたものでした。私が関わった限り、初めのころの原発では、地震のことなど真面目に考えていなかったのです。それを新しいのも古いのも一緒くたにして、大丈夫だなんて、とんでもないことです。1993年に、女川原発の一号機が震度4くらいの地震で出力が急上昇して、自動停止したことがありましたが、この事故は大変な事故でした。なぜ大変だったかというと、この原発では、1984年に震度5で止まるような工事をしているのですが、それが震度5ではないのに止まったんです。わかりやすく言うと、高速道路を運転中、ブレーキを踏まないのに、突然、急ブレーキがかかって止まったと同じことなんです。これは、東北電力が言うように、止まったからよかった、というような簡単なことではありません。5で止まるように設計されているものが4で止まったということは、5では止まらない可能性もあるということなんです。つまり、いろんなことが設計通りにいかないということの現れなんです。
こういう地震で異常な止まり方をした原発は、1987年に福島原発でも起きていますが、同じ型の原発が全国で10もあります。これは地震と原発のことを考えるとき、非常に恐ろしいことではないでしょうか。
定期点検工事も素人が
原発は1年くらい運転すると、必ず止めて検査をすることになっていて、定期検査、定検といっています。原子炉には70気圧とか、150気圧とかいうものすごい圧力がかけられていて、配管の中には水が、水といっても300℃もある熱湯ですが、水や水蒸気がすごい勢いで通っていますから、配管の厚さが半分くらいに薄くなってしまう所もあるのです。そういう配管とかバルブとかを、定検でどうしても取り替えなくてはならないのですが、この作業に必ず被曝が伴うわけです。
原発は一回動かすと、中は放射能、放射線でいっぱいになりますから、その中で人間が放射線を浴びながら働いているのです。そういう現場へ行くのには、自分の服を全部脱いで、防護服に着替えて入ります。防護服というと、放射能から体を守る服のように聞こえますが、そうではないんですよ。放射線の量を計るアラームメーターは防護服の中のチョッキに付けているんですから。つまり、防護服は放射能を外に持ち出さないための単なる作業着です。作業している人を放射能から守るものではないのです。だから、作業が終わって外に出る時には、パンツー枚になって、被曝していないかどうか検査をするんです。体の表面に放射能がついている、いわゆる外部被曝ですと、シャワーで洗うと大体流せますから、放射能がゼロになるまで徹底的に洗ってから、やっと出られます。
また、安全靴といって、備付けの靴に履き替えますが、この靴もサイズが自分の足にきちっと合うものはありませんから、大事な働く足元がちゃんと定まりません。それに放射能を吸わないように全面マスクを付けたりします。そういうかっこうで現場に入り、放射能の心配をしながら働くわけですから、実際、原発の中ではいい仕事は絶対に出来ません。普通の職場とはまったく違うのです。
そういう仕事をする人が95%以上まるっきりの素人です。お百姓や漁師の人が自分の仕事が暇な冬場などにやります。言葉は悪いのですが、いわゆる出稼ぎの人です。そういう経験のない人が、怖さを全く知らないで作業をするわけです。
例えば、ボルトをネジで締める作業をするとき、「対角線に締めなさい、締めないと漏れるよ」と教えますが、作業する現場は放射線管理区域ですから、放射能がいっぱいあって最悪な所です。作業現場に入る時はアラームメーターをつけて入りますが、現場は場所によって放射線の量が違いますから、作業の出来る時間が違います。分刻みです。
現場に入る前にその日の作業と時間、時間というのは、その日に浴びてよい放射能の量で時間が決まるわけですが、その現場が20分間作業ができる所だとすると、20分経つとアラ-ムメーターが鳴るようにしてある。だから、「アラームメーターが鳴ったら現場から出なさいよ」と指示します。でも現場には時計がありません。時計を持って入ると、時計が放射能で汚染されますから腹時計です。そうやって、現場に行きます。
そこでは、ボルトをネジで締めながら、もう10分は過ぎたかな、15分は過ぎたかなと、頭はそっちの方にばかり行きます。アラームメーターが鳴るのが怖いですから。アラームメーターというのはビーッととんでもない音がしますので、初めての人はその音が鳴ると、顔から血の気が引くくらい怖いものです。これは経験した者でないと分かりません。ビーッと鳴ると、レントゲンなら何十枚もいっぺんに写したくらいの放射線の量に当たります。ですからネジを対角線に締めなさいと言っても、言われた通りには出来なくて、ただ締めればいいと、どうしてもいい加滅になってしまうのです。すると、どうなりますか。
放射能垂れ流しの海
冬に定検工事をすることが多いのですが、定検が終わると、海に放射能を含んだ水が何十トンも流れてしまうのです。はっきり言って、今、日本列島で取れる魚で、安心して食べられる魚はほとんどありません。日本の海が放射能で汚染されてしまっているのです。
海に放射能で汚れた水をたれ流すのは、定検の時だけではありません。原発はすごい熱を出すので、日本では海水で冷やして、その水を海に捨てていますが、これが放射能を含んだ温排水で、一分間に何十トンにもなります。
原発の事故があっても、県などがあわてて安全宣言を出しますし、電力会社はそれ以上に隠そうとします。それに、国民もほとんど無関心ですから、日本の海は汚れっぱなしです。
防護服には放射性物質がいっぱいついていますから、それを最初は水洗いして、全部海に流しています。排水口で放射線の量を計ると、すごい量です。こういう所で魚の養殖をしています。安全な食べ物を求めている人たちは、こういうことも知って、原発にもっと関心をもって欲しいものです。このままでは、放射能に汚染されていないものを選べなくなると思いますよ。
数年前の石川県の志賀原発の差止め裁判の報告会で、八十歳近い行商をしているおばあさんが、こんな話をしました。「私はいままで原発のことを知らなかった。今日、昆布とわかめをお得意さんに持っていったら、そこの若奥さんに「悪いけどもう買えないよ、今日で終わりね、志賀原発が運転に入ったから」って言われた。原発のことは何も分からないけど、初めて実感として原発のことが分かった。どうしたらいいのか」って途方にくれていました。みなさんの知らないところで、日本の海が放射能で汚染され続けています。
内部被爆が一番怖い
原発の建屋の中は、全部の物が放射性物質に変わってきます。物がすべて放射性物質になって、放射線を出すようになるのです。どんなに厚い鉄でも放射線が突き抜けるからです。体の外から浴びる外部被曝も怖いですが、一番怖いのは内部被曝です。
ホコリ、どこにでもあるチリとかホコリ。原発の中ではこのホコリが放射能をあびて放射性物質となって飛んでいます。この放射能をおびたホコリが口や鼻から入ると、それが内部被曝になります。原発の作業では片付けや掃除で一番内部被曝をしますが、この体の中から放射線を浴びる内部被曝の方が外部被曝よりもずっと危険なのです。体の中から直接放射線を浴びるわけですから。
体の中に入った放射能は、通常は、三日くらいで汗や小便と一緒に出てしまいますが、三日なら三日、放射能を体の中に置いたままになります。また、体から出るといっても、人間が勝手に決めた基準ですから、決してゼロにはなりません。これが非常に怖いのです。どんなに微量でも、体の中に蓄積されていきますから。
原発を見学した人なら分かると思いますが、一般の人が見学できるところは、とてもきれいにしてあって、職員も「きれいでしょう」と自慢そうに言っていますが、それは当たり前なのです。きれいにしておかないと放射能のホコリが飛んで危険ですから。
私はその内部被曝を百回以上もして、癌になってしまいました。癌の宣告を受けたとき、本当に死ぬのが怖くて怖くてどうしようかと考えました。でも、私の母が何時も言っていたのですが、「死ぬより大きいことはないよ」と。じゃ死ぬ前になにかやろうと。原発のことで、私が知っていることをすべて明るみに出そうと思ったのです。
普通の職場環境とは全く違う
放射能というのは蓄積します。いくら徴量でも十年なら十年分が蓄積します。これが怖いのです。日本の放射線管理というのは、年間50ミリシーベルトを守ればいい、それを越えなければいいという姿勢です。
例えば、定検工事ですと三ケ月くらいかかりますから、それで割ると一日分が出ます。でも、放射線量が高いところですと、一日に五分から七分間しか作業が出来ないところもあります。しかし、それでは全く仕事になりませんから、三日分とか、一週間分をいっぺんに浴びせながら作業をさせるのです。これは絶対にやってはいけない方法ですが、そうやって10分間なり20分間なりの作業ができるのです。そんなことをすると白血病とかガンになると知ってくれていると、まだいいのですが……。電力会社はこういうことを一切教えません。
稼動中の原発で、機械に付いている大きなネジが一本緩んだことがありました。動いている原発は放射能の量が物凄いですから、その一本のネジを締めるのに働く人三十人を用意しました。一列に並んで、ヨーイドンで七メートルくらい先にあるネジまで走って行きます。行って、一、二、三と数えるくらいで、もうアラームメーターがビーッと鳴る。中には走って行って、ネジを締めるスパナはどこにあるんだ?といったら、もう終わりの人もいる。ネジをたった一山、二山、三山締めるだけで百六十人分、金額で四百万円くらいかかりました。
なぜ、原発を止めて修理しないのかと疑問に思われるかもしれませんが、原発を一日止めると、何億円もの損になりますから、電力会社は出来るだけ止めないのです。放射能というのは非常に危険なものですが、企業というものは、人の命よりもお金なのです。
「絶対安全」だと五時間の洗脳教育
原発など、放射能のある職場で働く人を放射線従事者といいます。日本の放射線従事者は今までに約二七万人ですが、そのほとんどが原発作業者です。今も九万人くらいの人が原発で働いています。その人たちが年一回行われる原発の定検工事などを、毎日、毎日、被曝しながら支えているのです。
原発で初めて働く作業者に対し、放射線管理教育を約五時間かけて行います。この教育の最大の目的は、不安の解消のためです。原発が危険だとは一切教えません。国の被曝線量で管理しているので、絶対大丈夫なので安心して働きなさい、世間で原発反対の人たちが、放射能でガンや白血病に冒されると言っているが、あれは“マッカナ、オオウソ”である、国が決めたことを守っていれば絶対に大丈夫だと、五時間かけて洗脳します。
こういう「原発安全」の洗脳を、電力会社は地域の人にも行っています。有名人を呼んで講演会を開いたり、文化サークルで料理教室をしたり、カラー印刷の立派なチラシを新聞折り込みしたりして。だから、事故があって、ちょっと不安に思ったとしても、そういう安全宣伝にすぐに洗脳されてしまって、「原発がなくなったら、電気がなくなって困る」と思い込むようになるのです。
私自身が二〇年近く、現場の責任者として、働く人にオウムの麻原以上のマインド・コントロール、「洗脳教育」をやって来ました。何人殺したかわかりません。みなさんから現場で働く人は不安に思っていないのかとよく聞かれますが、放射能の危険や被曝のことは一切知らされていませんから、不安だとは大半の人は思っていません。体の具合が悪くなっても、それが原発のせいだとは全然考えもしないのです。作業者全員が毎日被曝をする。それをいかに本人や外部に知られないように処理するかが責任者の仕事です。本人や外部に被曝の問題が漏れるようでは、現場責任者は失格なのです。これが原発の現場です。
私はこのような仕事を長くやっていて、毎日がいたたまれない日も多く、夜は酒の力をかり、酒量が日毎に増していきました。そうした自分自身に、問いかけることも多くなっていました。一体なんのために、誰のために、このようなウソの毎日を過ごさねばならないのかと。気がついたら、二〇年の原発労働で、私の体も被曝でぼろぼろになっていました。
04.18.18:02
原発の真実 2
だれが助けるのか
また、東京電力の福島原発で現場作業員がグラインダーで額(ひたい)を切って、大怪我をしたことがありました。血が吹き出ていて、一刻を争う大怪我でしたから、直ぐに救急車を呼んで運び出しました。ところが、その怪我人は放射能まみれだったのです。でも、電力会社もあわてていたので、防護服を脱がせたり、体を洗ったりする除洗をしなかった。救急隊員にも放射能汚染の知識が全くなかったので、その怪我人は放射能の除洗をしないままに、病院に運ばれてしまったんです。だから、その怪我人を触った救急隊員が汚染される、救急車も汚染される、医者も看護婦さんも、その看護婦さんが触った他の患者さんも汚染される、その患者さんが外へ出て、また汚染が広がるというふうに、町中がパニックになるほどの大変な事態になってしまいました。みんなが大怪我をして出血のひどい人を何とか助けたいと思って必死だっただけで、放射能は全く見えませんから、その人が放射能で汚染されていることなんか、だれも気が付かなかったんですよ。
一人でもこんなに大変なんです。それが仮に大事故が起きて大勢の住民が放射能で汚染された時、一体どうなるのでしょうか。想像できますか。人ごとではないのです。この国の人、みんなの問題です。
びっくりした美浜原発細管破断事故!
皆さんが知らないのか、無関心なのか、日本の原発はびっくりするような大事故を度々起こしています。スリーマイル島とかチェルノブイリに匹敵する大事故です。一九八九年に、東京電力の福島第二原発で再循環ポンプがバラバラになった大事故も、世界で初めての事故でした。
そして、一九九一年二月に、関西電力の美浜原発で細管が破断した事故は、放射能を直接に大気中や海へ大量に放出した大事故でした。
チェルノブイリの事故の時には、私はあまり驚かなかったんですよ。原発を造っていて、そういう事故が必ず起こると分かっていましたから。だから、ああ、たまたまチェルノブイリで起きたと、たまたま日本ではなかったと思ったんです。しかし、美浜の事故の時はもうびっくりして、足がガクガクふるえて椅子から立ち上がれない程でした。
この事故はECCS(緊急炉心冷却装置)を手動で動かして原発を止めたという意味で、重大な事故だったんです。ECCSというのは、原発の安全を守るための最後の砦に当たります。これが効かなかったらお終りです。だから、ECCSを動かした美浜の事故というのは、一億数千万人の人を乗せたバスが高速道路を一〇〇キロのスピードで走っているのに、ブレーキもきかない、サイドブレーキもきかない、崖にぶつけてやっと止めたというような大事故だったんです。
原子炉の中の放射能を含んだ水が海へ流れ出て、炉が空焚きになる寸前だったのです。日本が誇る多重防護の安全弁が次々と効かなくて、あと〇・七秒でチェルノブイリになるところだった。それも、土曜日だったのですが、たまたまベテランの職員が来ていて、自動停止するはずが停止しなくて、その人がとっさの判断で手動で止めて、世界を巻き込むような大事故に至らなかったのです。日本中の人が、いや世界中の人が本当に運がよかったのですよ。
この事故は、二ミリくらいの細い配管についている触れ止め金具、何千本もある細管が振動で触れ合わないようにしてある金具が設計通りに入っていなかったのが原因でした。施工ミスです。そのことが二十年近い何回もの定検でも見つからなかったんですから、定検のいい加減さがばれた事故でもあった。入らなければ切って捨てる、合わなければ引っ張るという、設計者がまさかと思うようなことが、現場では当たり前に行われているということが分かった事故でもあったんです。
もんじゅの大事故
去年(一九九五年)の十二月八日に、福井県の敦賀にある動燃(動力炉・核燃料開発事業団)のもんじゅでナトリウム漏れの大事故を起こしました。もんじゅの事故はこれが初めてではなく、それまでにも度々事故を起こしていて、私は建設中に六回も呼ばれて行きました。というのは、所長とか監督とか職人とか、元の部下だった人たちがもんじゅの担当もしているので、何か困ったことがあると私を呼ぶんですね。もう会社を辞めていましたが、原発だけは事故が起きたら取り返しがつきませんから、放っては置けないので行くのです。
ある時、電話がかかって、「配管がどうしても合わないから来てくれ」という。行って見ますと、特別に作った配管も既製品の配管もすべて図面どおり、寸法通りになっている。でも、合わない。どうして合わないのか、いろいろ考えましたが、なかなか分からなかった。一晩考えてようやく分かりました。もんじゅは、日立、東芝、三菱、富士電機などの寄せ集めのメーカーで造ったもので、それぞれの会社の設計基準が違っていたのです。
図面を引くときに、私が居た日立は〇・五mm切り捨て、東芝と三菱は〇・五mm切上げ、日本原研は〇・五mm切下げなんです。たった〇・五mmですが、百カ所も集まると大変な違いになるのです。だから、数字も線も合っているのに合わなかったのですね。
これではダメだということで、みんな作り直させました。何しろ国の威信がかかっていますから、お金は掛けるんです。
どうしてそういうことになるかというと、それぞれのノウ・ハウ、企業秘密ということがあって、全体で話し合いをして、この〇・五mmについて、切り上げるか、切り下げるか、どちらかに統一しようというような話し合いをしていなかったのです。今回のもんじゅの事故の原因となった温度センサーにしても、メーカー同士での話し合いもされていなかったんではないでしょうか。
どんなプラントの配管にも、あのような温度計がついていますが、私はあんなに長いのは見たことがありません。おそらく施工した時に危ないと分かっていた人がいたはずなんですね。でも、よその会社のことだからほっとけばいい、自分の会社の責任ではないと。
動燃自体が電力会社からの出向で出来た寄せ集めですが、メーカーも寄せ集めなんです。これでは事故は起こるべくして起こる、事故が起きないほうが不思議なんで、起こって当たり前なんです。
しかし、こんな重大事故でも、国は「事故」と言いません。美浜原発の大事故の時と同じように「事象があった」と言っていました。私は事故の後、直ぐに福井県の議会から呼ばれて行きました。あそこには十五基も原発がありますが、誘致したのは自民党の議員さんなんですね。だから、私はそういう人に何時も、「事故が起きたらあなた方のせいだよ、反対していた人には責任はないよ」と言ってきました。この度、その議員さんたちに呼ばれたのです。「今回は腹を据えて動燃とケンカする、どうしたらよいか教えてほしい」と相談を受けたのです。
それで、私がまず最初に言ったことは、「これは事故なんです、事故。事象というような言葉に誤魔化されちゃあだめだよ」と言いました。県議会で動燃が「今回の事象は……」と説明を始めたら、「事故だろ! 事故!」と議員が叫んでいたのが、テレビで写っていましたが、あれも、黙っていたら、軽い「事象」ということにされていたんです。地元の人たちだけではなく、私たちも、向こうの言う「事象」というような軽い言葉に誤魔化されてはいけないんです。
普通の人にとって、「事故」というのと「事象」というのとでは、とらえ方がまったく違います。この国が事故を事象などと言い換えるような姑息なことをしているので、日本人には原発の事故の危機感がほとんどないのです。
日本のプルトニウムがフランスの核兵器に?
もんじゅに使われているプルトニウムは、日本がフランスに再処理を依頼して抽出したものです。再処理というのは、原発で燃やしてしまったウラン燃料の中に出来たプルトニウムを取り出すことですが、プルトニウムはそういうふうに人工的にしか作れないものです。
そのプルトニウムがもんじゅには約一・四トンも使われています。長崎の原爆は約八キロだったそうですが、一体、もんじゅのプルトニウムでどのくらいの原爆ができますか。それに、どんなに微量でも肺ガンを起こす猛毒物質です。半減期が二万四千年もあるので、永久に放射能を出し続けます。だから、その名前がプルートー、地獄の王という名前からつけられたように、プルトニウムはこの世で一番危険なものといわれるわけですよ。
しかし、日本のプルトニウムが去年(一九九五年)南太平洋でフランスが行った核実験に使われた可能性が大きいことを知っている人は、余りいません。フランスの再処理工場では、プルトニウムを作るのに核兵器用も原発用も区別がないのです。だから、日本のプルトニウムが、この時の核実験に使われてしまったことはほとんど間違いありません。
日本がこの核実験に反対をきっちり言えなかったのには、そういう理由があるからです。もし、日本政府が本気でフランスの核実験を止めさせたかったら、簡単だったのです。つまり、再処理の契約を止めればよかったんです。でも、それをしなかった。
日本とフランスの貿易額で二番目に多いのは、この再処理のお金なんですよ。国民はそんなことも知らないで、いくら「核実験に反対、反対」といっても仕方がないんじゃないでしょうか。それに、唯一の被爆国といいながら、日本のプルトニウムがタヒチの人々を被爆させ、きれいな海を放射能で汚してしまったに違いありません。
世界中が諦めたのに、日本だけはまだこんなもので電気を作ろうとしているんです。普通の原発で、ウランとプルトニウムを混ぜた燃料(MOX燃料)を燃やす、いわゆるプルサーマルをやろうとしています。しかし、これは非常に危険です。分かりやすくいうと、石油ストーブでガソリンを燃やすようなことなんです。原発の元々の設計がプルトニウムを燃すようになっていません。プルトニウムは核分裂の力がウランとはケタ違いに大きいんです。だから原爆の材料にしているわけですから。
いくら資源がない国だからといっても、あまりに酷すぎるんじゃないでしょうか。早く原発を止めて、プルトニウムを使うなんてことも止めなければ、あちこちで被曝者が増えていくばかりです。
日本には途中でやめる勇気がない
世界では原発の時代は終わりです。原発の先進国のアメリカでは、二月(一九九六年)に二〇一五年までに原発を半分にすると発表しました。それに、プルトニウムの研究も大統領命令で止めています。あんなに怖い物、研究さえ止めました。
もんじゅのようにプルトニウムを使う原発、高速増殖炉も、アメリカはもちろんイギリスもドイツも止めました。ドイツは出来上がったのを止めて、リゾートパークにしてしまいました。世界の国がプルトニウムで発電するのは不可能だと分かって止めたんです。日本政府も今度のもんじゅの事故で「失敗した」と思っているでしょう。でも、まだ止めない。これからもやると言っています。
どうして日本が止めないかというと、日本にはいったん決めたことを途中で止める勇気がないからで、この国が途中で止める勇気がないというのは非常に怖いです。みなさんもそんな例は山ほどご存じでしょう。
とにかく日本の原子力政策はいい加減なのです。日本は原発を始める時から、後のことは何にも考えていなかった。その内に何とかなるだろうと。そんないい加減なことでやってきたんです。そうやって何十年もたった。でも、廃棄物一つのことさえ、どうにもできないんです。
もう一つ、大変なことは、いままでは大学に原子力工学科があって、それなりに学生がいましたが、今は若い人たちが原子力から離れてしまい、東大をはじめほとんどの大学からなくなってしまいました。机の上で研究する大学生さえいなくなったのです。
また、日立と東芝にある原子力部門の人も三分の一に減って、コ・ジェネレーション(電気とお湯を同時に作る効率のよい発電設備)のガス・タービンの方へ行きました。メーカーでさえ、原子力はもう終わりだと思っているのです。
原子力局長をやっていた島村武久さんという人が退官して、『原子力談義』という本で、「日本政府がやっているのは、ただのつじつま合わせに過ぎない、電気が足りないのでも何でもない。あまりに無計画にウランとかプルトニウムを持ちすぎてしまったことが原因です。はっきりノーといわないから持たされてしまったのです。そして日本はそれらで核兵器を作るんじゃないかと世界の国々から見られる、その疑惑を否定するために核の平和利用、つまり、原発をもっともっと造ろうということになるのです」と書いていますが、これもこの国の姿なんです。
廃炉も解体も出来ない原発い
一九六六年に、日本で初めてイギリスから輸入した十六万キロワットの営業用原子炉が茨城県の東海村で稼動しました。その後はアメリカから輸入した原発で、途中で自前で造るようになりましたが、今では、この狭い日本に一三五万キロワットというような巨大な原発を含めて五一の原発が運転されています。
具体的な廃炉・解体や廃棄物のことなど考えないままに動かし始めた原発ですが、厚い鉄でできた原子炉も大量の放射能をあびるとボロボロになるんです。だから、最初、耐用年数は十年だと言っていて、十年で廃炉、解体する予定でいました。しかし、一九八一年に十年たった東京電力の福島原発の一号機で、当初考えていたような廃炉・解体が全然出来ないことが分かりました。このことは国会でも原子炉は核反応に耐えられないと、問題になりました。
この時、私も加わってこの原子炉の廃炉、解体についてどうするか、毎日のように、ああでもない、こうでもないと検討をしたのですが、放射能だらけの原発を無理やりに廃炉、解体しようとしても、造るときの何倍ものお金がかかることや、どうしても大量の被曝が避けられないことなど、どうしようもないことが分かったのです。原子炉のすぐ下の方では、決められた線量を守ろうとすると、たった十数秒くらいしかいられないんですから。
机の上では、何でもできますが、実際には人の手でやらなければならないのですから、とんでもない被曝を伴うわけです。ですから、放射能がゼロにならないと、何にもできないのです。放射能がある限り廃炉、解体は不可能なのです。人間にできなければロボットでという人もいます。でも、研究はしていますが、ロボットが放射能で狂ってしまって使えないのです。
結局、福島の原発では、廃炉にすることができないというので、原発を売り込んだアメリカのメーカーが自分の国から作業者を送り込み、日本では到底考えられない程の大量の被曝をさせて、原子炉の修理をしたのです。今でもその原発は動いています。
最初に耐用年数が十年といわれていた原発が、もう三〇年近く動いています。そんな原発が十一もある。くたびれてヨタヨタになっても動かし続けていて、私は心配でたまりません。
また、神奈川県の川崎にある武蔵工大の原子炉はたった一〇〇キロワットの研究炉ですが、これも放射能漏れを起こして止まっています。机上の計算では、修理に二〇億円、廃炉にするには六〇億円もかかるそうですが、大学の年間予算に相当するお金をかけても廃炉にはできないのです。まず停止して放射能がなくなるまで管理するしかないのです。
それが一〇〇万キロワットというような大きな原発ですと、本当にどうしようもありません。
「閉鎖」して、監視・管理
なぜ、原発は廃炉や解体ができないのでしょうか。それは、原発は水と蒸気で運転されているものなので、運転を止めてそのままに放置しておくと、すぐサビが来てボロボロになって、穴が開いて放射能が漏れてくるからです。原発は核燃料を入れて一回でも運転すると、放射能だらけになって、止めたままにしておくことも、廃炉、解体することもできないものになってしまうのです。
先進各国で、閉鎖した原発は数多くあります。廃炉、解体ができないので、みんな「閉鎖」なんです。閉鎖とは発電を止めて、核燃料を取り出しておくことですが、ここからが大変です。
放射能まみれになってしまった原発は、発電している時と同じように、水を入れて動かし続けなければなりません。水の圧力で配管が薄くなったり、部品の具合が悪くなったりしますから、定検もしてそういう所の補修をし、放射能が外に漏れださないようにしなければなりません。放射能が無くなるまで、発電しているときと同じように監視し、管理をし続けなければならないのです。
今、運転中が五一、建設中が三、全部で五四の原発が日本列島を取り巻いています。これ以上運転を続けると、余りにも危険な原発もいくつかあります。この他に大学や会社の研究用の原子炉もありますから、日本には今、小さいのは一〇〇キロワット、大きいのは一三五万キロワット、大小合わせて七六もの原子炉があることになります。
しかし、日本の電力会社が、電気を作らない、金儲けにならない閉鎖した原発を本気で監視し続けるか大変疑問です。それなのに、さらに、新規立地や増設を行おうとしています。その中には、東海地震のことで心配な浜岡に五機目の増設をしようとしていたり、福島ではサッカー場と引換えにした増設もあります。新設では新潟の巻町や三重の芦浜、山口の上関、石川の珠洲、青森の大間や東通などいくつもあります。それで、二〇一〇年には七〇~八〇基にしようと。実際、言葉は悪いですが、この国は狂っているとしか思えません。
これから先、必ずやってくる原発の閉鎖、これは本当に大変深刻な問題です。近い将来、閉鎖された原発が日本国中いたるところに出現する。これは不安というより、不気味です。ゾーとするのは、私だけでしょうか。
どうしようもない放射性廃棄物
それから、原発を運転すると必ず出る核のゴミ、毎日、出ています。低レベル放射性廃棄物、名前は低レベルですが、中にはこのドラム缶の側に五時間もいたら、致死量の被曝をするようなものもあります。そんなものが全国の原発で約八〇万本以上溜まっています。
日本が原発を始めてから一九六九年までは、どこの原発でも核のゴミはドラム缶に詰めて、近くの海に捨てていました。その頃はそれが当たり前だったのです。私が茨城県の東海原発にいた時、業者はドラム缶をトラックで運んでから、船に乗せて、千葉の沖に捨てに行っていました。
しかし、私が原発はちょっとおかしいぞと思ったのは、このことからでした。海に捨てたドラム缶は一年も経つと腐ってしまうのに、中の放射性のゴミはどうなるのだろうか、魚はどうなるのだろうかと思ったのがはじめでした。
現在は原発のゴミは、青森の六ケ所村へ持って行っています。全部で三百万本のドラム缶をこれから三百年間管理すると言っていますが、一体、三百年ももつドラム缶があるのか、廃棄物業者が三百年間も続くのかどうか。どうなりますか。
もう一つの高レベル廃棄物、これは使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを取り出した後に残った放射性廃棄物です。日本はイギリスとフランスの会社に再処理を頼んでいます。去年(一九九五年)フランスから、二八本の高レベル廃棄物として返ってきました。これはどろどろの高レベル廃棄物をガラスと一緒に固めて、金属容器に入れたものです。この容器の側に二分間いると死んでしまうほどの放射線を出すそうですが、これを一時的に青森県の六ケ所村に置いて、三〇年から五〇年間くらい冷やし続け、その後、どこか他の場所に持って行って、地中深く埋める予定だといっていますが、予定地は全く決まっていません。余所の国でも計画だけはあっても、実際にこの高レベル廃棄物を処分した国はありません。みんな困っています。
原発自体についても、国は止めてから五年か十年間、密閉管理してから、粉々にくだいてドラム缶に入れて、原発の敷地内に埋めるなどとのんきなことを言っていますが、それでも一基で数万トンくらいの放射能まみれの廃材が出るんですよ。生活のゴミでさえ、捨てる所がないのに、一体どうしようというんでしょうか。とにかく日本中が核のゴミだらけになる事は目に見えています。早くなんとかしないといけないんじゃないでしょうか。それには一日も早く、原発を止めるしかなんですよ。
私が五年程前に、北海道で話をしていた時、「放射能のゴミを五〇年、三百年監視続ける」と言ったら、中学生の女の子が、手を挙げて、「お聞きしていいですか。今、廃棄物を五〇年、三百年監視するといいましたが、今の大人がするんですか? そうじゃないでしょう。次の私たちの世代、また、その次の世代がするんじゃないんですか。だけど、私たちはいやだ」と叫ぶように言いました。この子に返事の出来る大人はいますか。
それに、五〇年とか三百年とかいうと、それだけ経てばいいんだというふうに聞こえますが、そうじゃありません。原発が動いている限り、終わりのない永遠の五〇年であり、三百年だということです。
住民の被曝と恐ろしい差別
日本の原発は今までは放射能を一切出していませんと、何十年もウソをついてきた。でもそういうウソがつけなくなったのです。
原発にある高い排気塔からは、放射能が出ています。出ているんではなくて、出しているんですが、二四時間放射能を出していますから、その周辺に住んでいる人たちは、一日中、放射能をあびて被曝しているのです。
ある女性から手紙が来ました。二三歳です。便箋に涙の跡がにじんでいました。「東京で就職して恋愛し、結婚が決まって、結納も交わしました。ところが突然相手から婚約を解消されてしまったのです。相手の人は、君には何にも悪い所はない、自分も一緒になりたいと思っている。でも、親たちから、あなたが福井県の敦賀で十数年間育っている。原発の周辺では白血病の子どもが生まれる確率が高いという。白血病の孫の顔はふびんで見たくない。だから結婚するのはやめてくれ、といわれたからと。私が何か悪いことしましたか」と書いてありました。この娘さんに何の罪がありますか。こういう話が方々で起きています。
この話は原発現地の話ではない、東京で起きた話なんですよ、東京で。皆さんは、原発で働いていた男性と自分の娘とか、この女性のように、原発の近くで育った娘さんと自分の息子とかの結婚を心から喜べますか。若い人も、そういう人と恋愛するかも知れないですから、まったく人ごとではないんです。 こういう差別の話は、言えば差別になる。でも言わなければ分からないことなんです。原発に反対している人も、原発は事故や故障が怖いだけではない、こういうことが起きるから原発はいやなんだと言って欲しいと思います。原発は事故だけではなしに、人の心まで壊しているのですから。
私、子ども生んでも大丈夫ですか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ。
最後に、私自身が大変ショックを受けた話ですが、北海道の泊原発の隣の共和町で、教職員組合主催の講演をしていた時のお話をします。どこへ行っても、必ずこのお話はしています。あとの話は全部忘れてくださっても結構ですが、この話だけはぜひ覚えておいてください。
その講演会は夜の集まりでしたが、父母と教職員が半々くらいで、およそ三百人くらいの人が来ていました。その中には中学生や高校生もいました。原発は今の大人の問題ではない、私たち子どもの問題だからと聞きに来ていたのです。
話が一通り終わったので、私が質問はありませんかというと、中学二年の女の子が泣きながら手を挙げて、こういうことを言いました。
「今夜この会場に集まっている大人たちは、大ウソつきのええかっこしばっかりだ。私はその顔を見に来たんだ。どんな顔をして来ているのかと。今の大人たち、特にここにいる大人たちは農薬問題、ゴルフ場問題、原発問題、何かと言えば子どもたちのためにと言って、運動するふりばかりしている。私は泊原発のすぐ近くの共和町に住んで、二四時間被曝している。原子力発電所の周辺、イギリスのセラフィールドで白血病の子どもが生まれる確率が高いというのは、本を読んで知っている。私も女の子です。年頃になったら結婚もするでしょう。私、子ども生んでも大丈夫なんですか?」と、泣きながら三百人の大人たちに聞いているのです。でも、誰も答えてあげられない。
「原発がそんなに大変なものなら、今頃でなくて、なぜ最初に造るときに一生懸命反対してくれなかったのか。まして、ここに来ている大人たちは、二号機も造らせたじゃないのか。たとえ電気がなくなってもいいから、私は原発はいやだ」と。ちょうど、泊原発の二号機が試運転に入った時だったんです。
「何で、今になってこういう集会しているのか分からない。私が大人で子どもがいたら、命懸けで体を張ってでも原発を止めている」と言う。
「二基目が出来て、今までの倍私は放射能を浴びている。でも私は北海道から逃げない」って、泣きながら訴えました。
私が「そういう悩みをお母さんや先生に話したことがあるの」と聞きましたら、「この会場には先生やお母さんも来ている、でも、話したことはない」と言います。「女の子同志ではいつもその話をしている。結婚もできない、子どもも産めない」って。
担任の先生たちも、今の生徒たちがそういう悩みを抱えていることを少しも知らなかったそうです。
これは決して、原子力防災の八キロとか十キロの問題ではない、五十キロ、一〇〇キロ圏でそういうことがいっぱい起きているのです。そういう悩みを今の中学生、高校生が持っていることを絶えず知っていてほしいのです。
みなさんには、ここまでのことから、原発がどんなものか分かってもらえたと思います。
チェルノブイリで原発の大事故が起きて、原発は怖いなーと思った人も多かったと思います。でも、「原発が止まったら、電気が無くなって困る」と、特に都会の人は原発から遠いですから、少々怖くても仕方がないと、そう考えている人は多いんじゃないでしょうか。
でも、それは国や電力会社が「原発は核の平和利用です」「日本の原発は絶対に事故を起こしません。安全だから安心しなさい」「日本には資源がないから、原発は絶対に必要なんですよ」と、大金をかけて宣伝をしている結果なんです。もんじゅの事故のように、本当のことはずーっと隠しています。
原発は確かに電気を作っています。しかし、私が二〇年間働いて、この目で見たり、この体で経験したことは、原発は働く人を絶対に被曝させなければ動かないものだということです。それに、原発を造るときから、地域の人達は賛成だ、反対だと割れて、心をズタズタにされる。出来たら出来たで、被曝させられ、何の罪もないのに差別されて苦しんでいるんです。
原発がある限り、安心できない
みなさんは、原発が事故を起こしたら怖いのは知っている。だったら、事故さえ起こさなければいいのか。平和利用なのかと。そうじゃないでしょう。私のような話、働く人が被曝して死んでいったり、地域の人が苦しんでいる限り、原発は平和利用なんかではないんです。それに、安全なことと安心だということは違うんです。原発がある限り安心できないのですから。
それから、今は電気を作っているように見えても、何万年も管理しなければならない核のゴミに、膨大な電気や石油がいるのです。それは、今作っている以上のエネルギーになることは間違いないんですよ。それに、その核のゴミや閉鎖した原発を管理するのは、私たちの子孫なのです。
そんな原発が、どうして平和利用だなんて言えますか。だから、私は何度も言いますが、原発は絶対に核の平和利用ではありません。
だから、私はお願いしたい。朝、必ず自分のお子さんの顔やお孫さんの顔をしっかりと見てほしいと。果たしてこのまま日本だけが原子力発電所をどんどん造って大丈夫なのかどうか、事故だけでなく、地震で壊れる心配もあって、このままでは本当に取り返しのつかないことが起きてしまうと。これをどうしても知って欲しいのです。
ですから、私はこれ以上原発を増やしてはいけない、原発の増設は絶対に反対だという信念でやっています。そして稼働している原発も、着実に止めなければならないと思っていあす。
原発がある限り、世界に本当の平和はこないのですから。
筆者「平井憲夫さん」について:
1997年1月逝去。
1級プラント配管技能士、原発事故調査国民会議顧問、原発被曝労働者救済センター代表、北陸電力能登(現・志賀)原発差し止め裁判原告特別補佐人、東北電力女川原発差し止め裁判原告特別補佐人、福島第2原発3号機運転差し止め訴訟原告証人。
「原発被曝労働者救済センター」は後継者がなく、閉鎖されました。
鎌仲ひとみ監督「六ヶ所村ラプソディ―」オフィシャルHP
http://www.rokkasho-rhapsody.com/
田中優さんのお話で「六ヶ所村問題」について知る事ができます。
03.29.07:46
サレガマパダ二サ
27日、八瀬の公民館でカルロスさん、中村徳子によるインド古典音楽コンサート&声楽ワークショップを催しました。
大人9人、子ども12人の参加です。
まずとっこさんがインドのこと、楽器のことを話して下さいます。
グランディングしたやさしく丁寧な語りを、子ども達は一番前を陣取って聞きいります。
コンサートが始まります。
譜面が無く、即興での演奏だそう。
まず夜明けの音楽から…
背景の比叡山の山並みに響きわたり、染みいるような、深くやさしいカルロスさんの吹くバンスリーの音色です。
次は太陽が昇り、朝の神秘とロマンの音楽
音が力強くなり、エネルギーが湧いてくる感じ…
こども達もうずうずして動きたくなってきます。
そして午後の音楽…
不思議と無いはずの太鼓の音が聞こえる感じがし、とても躍動感があります。
音楽によって、声を出したり、動き回ったり、ねそべったり、子どもたちは感覚のまま過ごします。
一般のコンサートでは許されない光景です。
でもカルロスさんは「子どもの素直な反応がいい。子どもたちからエネルギーをもらった」と言ってくださいます。
そう言っていただけるとほっとします…
最後は日本の旋律…子守唄…
私は子ども達のお相手で外に出ていて聞きのがしてしまいました。
でも主人がビデオを撮っていてくれたので、後で聴きくことができました。
バンスリーが尺八のよう、徳子さんの歌声…こころの琴線にふれます。
日本人共通の、本来帰るところと繋がる感じです。
コンサート余韻が続く中、次はとっ子さんによるインド声楽ワークショップです。
ド= SAサ
レ= REレ
ミ= GAガ
ファ=MAマ
ソ= PAパ
ラ= DAダ
シ= NI二
ド= SAサ
この音で徳子さんについて、呼吸に意識を向けて、深い所からやさしく
声を出します。
自分の声ではないような感じ…
みんなの声を聞き、私も声を出し、音がひとつになります。
天台宗のお坊さんの声明を聞いた時のような、ふーと下から上へとうねりを持ったやさしい風が頭の中を通りぬけるような感覚になり、深くリラックスして気持ち良くなってきます。
瞑想状態になり、目を閉じたくなるところ、カルロスさんが目の力を使って!目を見開いて、閉じないで!とドングリマナコを見開いてジェスチャーしてくれて、その様子がチャーミングで思わず笑ってしまいます。
口を大きく開けて声を出すことも、同じように目を見開いて口に指を縦に2本入れて教えてくれます。
輪になって、1地番目の人が、「サ~レ」、2番目の人が「レ~ガ~」、3番目の人が「ガ~マ~」というように2音を歌い、順繰りに廻していく…ということをしました。
私は徳子さんから音を預かって隣の人に繋いでいきます。
そうして音をぐるぐるとみんなで繋いで回していると胸の辺りが震えだし、涙があふれてきました。
理屈ではわからないこの感動は、私の魂から来る喜びなのだろうと思います。
後で聞いたら、友人は音楽に対する苦手意識を持っていた子どものころの感覚がよみがえり、もっと思いっきり表現したい、自己発揮したいという気持ちが湧いてきたそう…
1999年、京都大原で本来の自分らしさあなたらしさを安心して表現できる場所をつくり、魂の奥から湧きあがる衝動からの自己発揮を応援したいと、陽・紫空雲舎を主人と友達とで立ち上げました。
今はそうした場所はなく、大した活動はできていないけど、何をしていても、自覚していない所でも、瞬間瞬間やはりそこを目指しています。
状況やしていることは違っても、眼差しはいつもひとつを向いています。
私たちにとっては、こうした場を企画する一番の意味はそうしたところにあります。
カルロスさん、徳子さん、本当に豊かな、素適な時間をありがとうございます!!
そして参加して下さった皆さん、本当にありがとうございます!!
PS,
当日の朝、コンサートとワークショップの合間のティータイムにとメープルビスケットを焼いて、ある分で適当に分けて、小さな袋に詰めて持って行きました。数が足りるかな…と思いながらみんなにひとつづつ配っていったら、何も計算していなかったのに、なんとその日に集った人数ぴったり!ちょっとしたミラクルを感じました…
03.18.10:02
お茶碗5円玉
沖縄のユタ直系占術家の島袋千鶴子さんが、「お茶碗5円玉」という本を出されています
お茶碗に5円玉を入れて玄関に置いておくといいことが起こるという沖縄発の開運法です。
今週の月曜日にそのことを知り、何とか現状を打破したかったので直ぐに実行しました。
すると…
その日のうちに、近くに住んでいる友達のご主人から思わぬ電話が入りました。
「オートCADが使えるなら、竣工図を描く仕事を手伝って欲しい」という依頼です。
派遣会社に登録して仕事を探していたので、願ってもないお話です。
「今から行きます。」
高野川沿いの気持ちのいい道を歩いて3分ぐらいの事務所に向いながら
お茶碗5円玉の効果を感じます。
昨年4月に魂で決めて来た本番を迎えると主人が直感してから、それまでの仕事を辞め、今までずっと主人が取り組んできたことや経験が活かされる仕事と出遭う事を望んでいました。
でもどうやったら出会えるのか、模索の毎日で月日だけが流れて、経済が回らなくて大変な日が続いていました。
今週の火曜日に病院の夜勤の仕事の話が知り合いからあり、収入が全くないよりましなので受たほうがいいか迷いましたが、私はその仕事を始めると主人の氣のめぐりがいい方向に向かないと直感していました。
「絶対に伸ちゃんにしかできない仕事、ぴったりの仕事がある。絶対に出遭いが起こるから…」と伝えると、主人はその面接に行くのをやめることにしました。
でも生活のことも考えないと…主人の収入が一銭もない状態がこれ以上つづくなんて本当に困る。
もう1日だけ待って、どうしてものときは夜勤の話を受けて、本命の出会いを待とうと2人で話合いました。
その日の夕方、一本の電話がかかってきました。
その内容を主人から聞いたときすぐに、本命の出会いがついに起こったと直感しました。
まさに天からのギフトのような仕事がやってきたのです!
その内容は子ども達の学びの環境づくりのサポートや将来に向けてのカウンセリングです。
素晴らしい!
主人は今その具体的な打ち合わせに行っています。
ついに主人の真価を認められ、その発揮が始まるのです。
こんなに嬉しいことは他にありません。
1998年、出遭って間もない頃、主人の捉えていることに宇宙の真理や本質を感じ、この人の取り組みは本物だと確信しました。
その時の自分の感覚を信じ続けたから、今まで12年何とかやってこれました。
今この時を迎えて、言葉ではいいつくせないほどの
感謝のきもちでいっぱいです。
本当にありがとうございます。
「お茶碗5円玉」は他力本願な開運法ではなく、それまで取り組んできたことが正当に評価される運気を運んでくれるものなのではないかと感じています。
魂の衝動のままに生きるには、現状の社会とのインターフェイスに調整が必要で一時的に苦労するのは仕方のない事。
「新しい時代を創っていく」と決めてきた魂ですから、少々の苦労ではへこたれない強さもちゃんともらっています。
同じように勇気を持ってあきらめずに自分らしい歩みをされている方に、特にお勧めの「お茶碗5円玉」開運法です!
03.18.09:15
カルロスさんのパエリア
03.07.18:23
サドベリーバレースクール
その方が影響を受けたというサドベリーバレースクールのことを調べて、「超学校」という本を取り寄せました。
その本を手にしただけで、その本の持つ波動に涙があふれました。
読み進むと、やはりこれぞ求めていた一つの答えという実感!
つづく…